Defekt_tw’s diary

万物流転

Chain of negative on the Internet

※ネガティヴ成分を多く含みます

 

ITで一山当てた奴がブイブイ言わせてるのをリアルタイムで見てきた、ITで一山当てた奴ってだれを思い浮かべますか?

俺は何人か思い浮かべるけどまず全員好きではないし尊敬もしてないし、言ってしまえば軽蔑してるかもしれない。

そんなこと言っても彼等は勝ち組大金持ち、お前はなんなの?なんて言葉も出てきそうだがべつにいいのです、俺は彼等のやり口が気に入らないし、そのやり口から多くの負の連鎖が発生してるのを彼らは見て見ぬ振りをしている、俺もそれを横目に何もできないでいる、だから気に入らない、キライだ。

俺はネットの創世記からのユーザーで、広大ななにもないネットに「さあここは自由だ、そして誰でもウェルカムだ」と言われやって来た。

創世記からネットをやっている人間はパソコン通信からのユーザーやPCを使ったコミュニケーションを既に経験している人、好奇心旺盛なそれなりの知識を持った人間が大半だった。

つまりは「誰でもウェルカムだ、ここは自由だ」と言われて、ぼちぼちいろんなホームページを閲覧して、ああ自分でも作れるのかとホームページ作りにチャレンジして、内容の面白さはとにかく、それぞれがわきまえるところはわきまえた、迷惑をかけずにみなさん楽しみましょうという牧歌的な世界で、だんだんと賑やかになっていく世界がカテゴライズされていき、しかし迷惑な干渉もお互いしない、そして画期的なアイディアは参考にされ学ばれ賞賛され、テンプレートになっていき、ホームページ同士がリンクで繋がり仲良くなったりして、とにかくまあ俺たちの遊び場所としてはなかなかに面白い世界であった。

さて。

「ここは自由だ、そして誰でもウェルカムだ」という言葉に2つほど危険なワードがある。

ひとつは「誰でもウェルカムだ」、もうひとつは「ここは自由だ」である、そのままか。

インターネットがだんだんと有名になるにつれ、空前のPCブームが起きた、Windows95の登場や携帯電話のインターネット閲覧機能搭載もあいまってインターネットのユーザー数はどんどん増えて言った、間口が増えるとさすがに誰でもウェルカムといえどわきまえない奴も出てくる、しかし2000年位まではわきまえない奴に注意喚起などをする文化があり、割と牧歌的なまま俺たちの遊び場所インターネットは発展して来た。

ネット人口が増えると、世間がにわかに、やれ情報化革命だとか、これからはインターネットの時代だ、ネットが世界を変える、なんて言い始めて、いわゆる企業がどどっとインターネットに参戦し、資本が拙速にインターネットに流れ込んで来た、「俺たちの遊び場に山師どもが土足で踏み込んで来た」そんな雰囲気が渋谷のビットバレーとかいう怪しい辺りから噴出していた

さてもう1つの危険なワードが「ここは自由だ」になる、自由というのはみんな大好きだし素晴らしいものなのだが、最低限人に迷惑をかけずわきまえるところはわきまえてみんなでうまくやっていきましょうというルールまたは美学やセンスがないと、自由というのはたやすく暴力になる。

誰かが一生懸命畑を耕しました、頑張って収穫できるようになりました、ここに畑を耕さなかった奴らが大挙してやって来て成果物だけごっそり持ち帰ってしまいました。

一般社会だと泥棒で犯罪にもなってしかるべきなのだけれども、実はネットでは当たり前のようにこれと同じことが起きている。

畑を耕した人もこれがまかり通るなら、と言って畑を耕さなくなっても仕方がない。

ネットに流れ込んで来た資本は、最初は迷走していたものの、広告という収入源を見出すと、ユーザーに見てもらうべく色々なサービスを始めた、俺たちの遊び場は土足で踏みにじられ、遊び場はここにしなさい、と、広告のついたSNSやブログに案内され、ホームページの文化は消滅していった。

良いことも悪いこともそこにはあるけれども、自由と言われた世界はもはやその頃にはノールール、仁義なき戦いへと変化していたと思う。

時代はスマートフォンになり、ますます間口の広がったインターネットの現状はどうだろう

振り返り今のネットを見てみよう、SNSには日常のように暴力的な言葉が溢れ、良いアイディアや発言はまとめサイトとかいうのにコピーされ、あまつさえコピーした奴には広告収入が発生してたり、新しいコンテンツやサービスが受ければ徹底的にパクられ同じようなコンテンツに溢れ、勢い余ってオリジナルを潰しにかかったり、毎日毎日向こう側からさあ見ろとコンテンツがやってくる。

これが自由の成れの果てか、人類にはまだ少し早かったんじゃないかという気持ちにもなる。

真似して学ぶのは良い、しかしパクって利鞘を得るというのは、俺から見るとなんというか、おこぼれにあやかる精神というか「そうゆうことできちゃうんだ」になる。

例えば仮にインターネットで画期的な何かを発表したとしよう、それがぶっちぎりなものでない限りきっと徹底的にコピーされパクられ食い物にされ、赤の他人の利益になりおまけに暴力的な批判の意見も浴びることになるだろう、そして君は思うだろう「所詮インターネットだから」と。

これからはもう大切なものはうかつに外に出さないようにしよう、と。

 結論にたどり着いた、インターネットを利用していながら、時に日々の大半を利用することになりながら、インターネットのパブリックな空間は既に「所詮インターネット」という乾いた空気が蔓延するようになってしまった。

原因は皮肉にも「全ては自由だ、そして誰でもウェルカムだ」に起因する、最初は善意で動いていても、抜け駆けする奴はかならず出てくる、きっとインターネットの創始者らは善意に全ての期待を込めたのだろうけど、自由は暴力になってしまって久しい。

時にシニカルにラディカルに、ネットの暴力を受け流し楽しむという、多少高度なスタイルが必須になった。

パクりも言葉の暴力も、いつのまにやら「インターネットならこういうことをしてもいいんだ」とはじめから認識してしまった層が発生してしまった。

広大なインターネットには統制の効いた他のメディアでは見られないスプーン一杯の真実が紛れ込んでくることがある、これがあるから油断できぬということもあるけれども、これがあるからおかしな事を大声で言う奴も出てくる。

飲まれたら負け、しかしぶっちぎるのも至難、パクる奴も企業も「何がいけないのか、Win-Winだ」と開き直り、結果なにか生み出そうと言う人間を根絶させなにも根付かず、毎日が暴力的な何かに支配され徹底的に消費される、後には次へのバトンも公益の精神もなく、翌日にはもう無くなっている。

そんな所詮インターネットに、潰されていった既存のリアル仕事もリアルメディアも数多く存在している。

全てインターネットのせい、なんて言わない、だけど1つの事象として、なんでこんな時代になっちゃったのかなあ、と思ってしまったりもする。

さて、どうするべきか。

人生はネットにあらず、実際はリアルに生きているわけだし所詮ネットなのだから、熱くなっちゃいけないのだろうか、それがリアルを蝕み始めても。

座して破滅を待つなかれ、何もしなければ同じことの繰り返しだ。

俺はゆっくりでも書き続けます、スプーン一杯の面白さを目指して。

 

追記

1・なんか広告ついてますけど俺のじゃないんで誰かの利益です

2・なんかボタンとかコメントとか最後についてますけど反応があるとやはり嬉しいので、共感したら是非なんか押したり書いたりしてください

 

本当はポジティブなこと書きたいんです、

よろしくどうぞ

Too Much Pain

人生うまくいかないんです。
人に嫌われているような気分から抜け出せません。
自分が社会的に終わってしまってるような気もします。
未来がありません。
泣きたい時もあります。
でも泣きません。
悔しい時もあります。
でも悔しがりません。
寂しい時もあります。
でも寂しがりません。
死にたい時もあります。
でも死にません。
なぜならそれが俺の鉄の掟だからです。

さて。
社会のルールが変わった、明確に形になって僕らの世界に影を落とし始めたのは10年前くらいからだろうか。
早くに気づいた奴はいい、多くは気づいたら自分の立ち位置が今までのように通用しなくなったんじゃないだろうか。
「えっ?そんなことあったっけ?」という人はそれでいいんです、あなたは正しい、俺のような「正しくない人」がちょっと困ったことになった、それだけの話だ。
社会にムカついている、逆を張って生きてる、そんなダメな僕らが、いったい何が正しくて、何が幸せなのか非常にわかりにくくなった今の世界で、安直に逆を張った立ち位置をとれなくなった。
はみ出した奴ははみ出した奴なりの正義、いや美学か、意地か、逃げ道か、言い訳か、何かが必要だ。
世界が嫌いだ、10年前のように簡単な嫌いじゃない、嫌いなり自分の中でひみつに取っておいた「愛」をもって世界を嫌わなきゃいけなくなった。
きっと憎んでる対象は変わらないんだろう、ツールが変わって、ルールが変わって、切り口が変わった、商道徳とかそういうものを完全無視でもお金があれば彼らは「勝った人」としてマジで好き勝手発言する権利を得た、どういうわけかそれに盲従する人間もたくさん現れた、やれこれが現代の正義だ、現代ビジネスだ、とか言われても、正直ムカつきません?そういうの。

俺は5年前から病気を患っている、包み隠さず言いましょう、双極性障害Ⅱ型、精神障害者福祉手帳2級保持、ぶっちゃければこのまま人生をフェードアウトする選択肢もある、だがしかし、俺の俺自身がそれを許さない、現在は就労支援施設に週五で通い、社会復帰を目指している。
理由は単純明快だ、俺の自信と自尊心を取り戻したい。

近所で知らぬ人間のいないアル中の親父と共依存の母、カルト宗教にハマった兄貴という機能不全家庭なら金メダル候補の環境ですくすくと育って、高機能パーソナル障害として育ち、悪いことは殺人と強姦以外ひと通りやったが社会人としてはきっとだれでも知ってる企業に席を置くまで頑張り、病気やクスリで全てを失い、卑しくも生き延び、わかりづらくなった未来のないこの世界に絶望しながらも社会復帰を目指している。

どうしてそう思ったのか、そして俺はどこに行き、どうなって行くのか、これから過去の出来事も現在進行形の出来事もも交えて、なるべく退屈しないように書いていきたい。
お天道さまに顔向けできないようなやつ、ねずみ色のオーラを放っている奴、馬鹿なやつ、ダメな奴が大好きだ。

友人に「変わるべきだ、変わらなきゃ死ぬんだ」といわれた、残念だけど俺は変わる気はない、このままで生きていく、そうでなきゃ意味が無いんだ。
世界に踏み潰されて死ぬならそれも本望、前のめりに笑顔で死ぬ準備はある、だが、生きる、生き延びる、とりあえず初心をここに。
俺はどうなっていくんだろう、雑感も交え、なるべく書いていく、リアルタイムで、
あと、いつも重い文章を書くつもりはないです、気分でね。


追記
書くべきかどうか迷ったのだけれども、迷うくらいなら書くことにした
「変わらなきゃ死ぬ」、「Change or Die」は経営学者のピーター・ドラッカーの言葉だ、経営理念にあげている会社も多い。
流れの速い業界に居たので、結構な頻度でChange か Die を突きつけられ、常にChangeを選んできた、だって他の選択肢はDie しかないからね。

俺は実は Change or Die に追い詰められ、ヒリヒリするほどの危機感を持ってベストを尽くし、そして Dieを突きつけられた過去がある。
精神障害者になり5年目になる、立ち上がらなくてはならない、それよりもまず何よりも先に出血を止めないと確実に死ぬ。

再生の原点ってなんだ?と考える。
いや俺のやってたことの原点って何よ?

「ある日人は生まれ。

 感動的な体験をする。

 それは「ブーンブーン」とものを動かすときに……

 沸きあがるときめき。」

これは自動車会社のマツダが Die から立ち上がるきっかけになったビデオの一部だ。

痛いほどわかる、

エンジニアだった俺が幼いころ、目を輝かせてみていたファミコンの画面、そのブラウン管の向う側に俺は何を見ていたのか。
同じ轍を何度も踏みたくない、どうせ踏むなら違う轍だ
そして前述した俺の「変わったら意味が無い」 に誤解があると少しハツカシイので、説明不足を長めの追記でお茶を濁らせていただく。